今年の夏休みは盆休みの四連休のみ、だと――。
年度明け、お知らせの山から真っ先に探し出した年間スケジュールを確認し、私は唖然とした。
馬鹿な。去年は九日も、しかもそれが二回もあった夏休みが、たったの、四日? 馬鹿も休み休み言いたまえ! マジで!
そんなわけで八月某日、今日も私は極めて快適な通勤電車に乗っている。ハゲやらデブやらおっさんひしめき合う三路線を乗り継ぎ、さらにシャトルバスに積み込まれ、そしてようやく白い雲に閉ざされた山頂の「オフィス」と銘打たれた収容所へ運ばれるのだ、じゃがいもか養豚のようにして、この考える一本の葦が!
まったくくたびれきったくたくたの枯れ草が、毎朝よくもこれだけ寄り添い合うものだ、互いに次の朝が来るのを恐れながら。
とはいえ二本目の電車は始発乗車のため、三十分の安息を約束された座席を確保することができる。さらに、この電車が混みはじめるのはベッドタウンの広がる次の駅から。しばし窮屈さから逃れ一息つけるというものだ。
戦士達のささやかな休息――。目にも耳にも届かない安らぎの泉が、それぞれに許された四十センチ程度の膝上に広がる。新聞だとか卑猥な雑誌だとかなんだとか。
静かだ。
私は発車を待つ間のこのささやかな沈黙が嫌いではない。お決まりの車内アナウンスも、信号トラブルや人身事故を伝えるものでなければ特別耳に障りもしない。ただの日常の背景だ。オアシスに時折響くラクダのいななきだ。ラクダがいななくかどうかは知らないが。
私は友人から借りた官能小説をそそくさと鞄から取り出した。この時間は、互いに無言の了解により不可侵条約が結ばれる。周りを気にする必要はない。早朝の通勤電車で誰が隣人を気にかけようか? すぐ隣では、化粧に夢中のお嬢さんが白桃色のファンデーションを塗りたくっている。
とその時、遠くから終焉の足音が聞こえた。
複数。
岩山を駆け下る男鹿のように、荒ぶる雪崩のごとく、一気にこの憩いの車両へ押し寄せて来る……!
オアシスに波紋が生まれたのが私には分かった。居合わせる全ての戦友(どうか友と呼ばせてくれ、今日だけは!)が、それまで頑なに守ってきた固有の殻を捨て、全く同時に同じバイブを放つ。それぞれは小さな波動だ。だがしかしそのか細い、同音異口による魂の悲鳴は、共鳴し合い、巨大な津波を引き起こす。反撃のベルが鳴り響く。
「乗車側の扉が閉まりっまーす!」
「間に合うぞー! 走れーっ!」
間に合うな!
誰かの悲鳴が間違いなく聞こえた。私自身のものかもしれなかった。
しかし我々、疲れた葦どもの精神の抵抗も虚しく。オアシスは、小気味良いゴムの擦れる音に蹂躙された。荒々しい駿馬のごとき生臭い息遣い。そして僅かに間に合わなかった我等のイージス、乗車側の扉が閉じた……。
敗北の慟哭を響かせて、電車は動きはじめる。
「あっぶねー、セーフ!」
乗ってきたのは痩せっぽちでちんちくりんの、しかし余すことなく黒焦げの少年三人だった。中学一年生か、あるいは小学生かもしれない。それぞれ色の違う肩掛けのスポーツバッグをぶら下げて、Tシャツにハーフパンツというお決まりの格好だ。
彼等は出口側の壁に陣取ると、そのスポーツバッグを床に置き、何と迷いもせずにその上にどかっと座った。行儀の悪い。不愉快にもほどがある。
「これ乗り過ごしたら遅刻だからな」
そのうちの一人は、大人顔負けに携帯電話を操り生意気にも乗り換え案内を見ているらしかった。彼は他の二人より僅かに色気づいていて、少し伸ばしたくせ毛をワックスで整えてある。
「なー、雨降るかな? 降らないよなあ? もっかい確認してよ」
扉近くに座った坊主頭の少年は、落ち着かずに何度も立ち上がっては、窓から外を確認している。つられて外を見ると確かに、厚い雲が広がっていた。だが心配ご無用、私は大人の必需品、折り畳み傘を携帯している。
「うるせぇなぁ、さっきも見ただろ!」
携帯電話を持った少年がやや乱暴に答える。どうやらこの坊主頭君、同じ質問を何度も繰り返しているようだ。そしてきっと、何度見ても傘のマークがのさばっているため、携帯電話の少年は機嫌が悪いのだろう。
「だいたい、ちょっとは落ち着けよな、この海坊主!」
「何だよ、俺のことかよ!」
二人は声を荒げ、違いの頭をひっぱたき合った。
周りの乗客の空気が一気に淀む。車掌! 今すぐにでもそこの悪ガキどもをつまみ出したまえ! できれば三人まとめて!
先の喧嘩を予測して、誰もが耳をふさぎたくなった瞬間。
それまで尻の下のスポーツバッグをごそごそやっていた少年がようやく顔を上げる。短い髪はボサボサで、どこまでが顔でどこまでが髪なのかわからないほど色黒だったが、素朴で実に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「ガム食べる?」
黒い彼が持つと、はっとするほど鮮やかなオレンジの包装。険悪だった二人の少年は同時に、差し出されたガムを見下ろした。
「これ、膨らむやつ?」
携帯電話をポケットに入れて、少年Aが一枚取る。
「違うよ」
坊主頭の少年Bは無言で一枚。彼はまだふて腐れたような表情だった。
「大人の噛むやつ」
「大人ガム」の魔法は素晴らしく、それを口に入れてしばらくは三人は静かだった。だが不機嫌な空気は微塵もなくて、少年Aは髪の調子を、海坊主は天気の調子を、ガムの少年は車内の様子を見てそれぞれの時間を過ごしている。
やがて再び電車は停まり――。
「扉が開きまーす。押さずに前の方の後ろについてご乗車くださーい!」
「ぎゃー!」
安全乗車を促すアナウンスに続いて、なだれ込んで来る疲れた葦の束波に呑まれて、三人の少年たちは見えなくなった。それきり彼らの声も姿も私にはわからない。ただ、その波に弾き出されるようにして乗り換え駅で降りると、外は眩しいくらいに晴れていた。
きっと素晴らしい夏休みになるだろう。
バスに乗り換える前に、私は珍しくコンビニに寄った。膨らまないガムでも買おうか。
「通勤電車に夏みかんのかおり」おしまい。