目の前の男の子がさ、あんまりウサギさんみたいなんであたし抱きしめそうになっちゃった。
この子ってば二つ年下だけど、お洒落で陽気ですごいイケてんの。
引き締まった体にすらっとしたあんよ、その間にペットボトル挟んだみたいにしちゃってさ。いつの間に仕込んだんだろ? バックスバニーみたいないたずらウサギちゃん。ぱちぱちのイチモツがどうやら日の目を見られないってんで、ビンビンの両耳垂らしてしょんぼりハッハ言っちゃって。
やだあたしいっちゃいそ。
「彼女待ってるんで帰ります」
そんなの当てつけにもなりゃしないよ。あたしとやりたくて仕方ない癖に、かわいい子。
「気ぃつけてね」
すぐ隣に乗りつけたタクシーに乗っけてやると、この子まだ恨めしげにあたしの手首を捕まえた。
「また飲みに行きましょうね、絶対」
「うん、絶対ね」
もしその時あたしをその気にできたら、ピンクのバスタブに乗せてあげる。お月さんがあんまりフカすんで、あんたきっと裏切られた気分になるよ。
タクシーが流れ星みたいに、店じまいの歓楽街を落ちていく。あたしはごきげんにハンドバッグを振り回し、ショートブーツを鳴らしてくたびれた居酒屋の並ぶ道を行く。見上げた空はまだ暗くて、まだまだ酒が進みそう。
行きつけの店ののれんをくぐり、カウンターを覗き込む。見慣れた三白眼と目があってにっこり。なのにあいつ、皿洗いの手を止めて薄い唇を尖らせた。
「ツケ溜まってんぞ」
「こないだのでナシにしてくれたんじゃないの?」
客のいないカウンターに飛び乗ると、タテガミ生やしたライオンみたいな太い首に腕を絡ませる。よく働いた男の汗のにおいってたまんない!
「あんたの大好きなのやってあげたじゃん」
「あれはお前が壊した店の看板代だろ」
「とか言って、もっかいしてもらいたいだけでしょ」
ニヤニヤしてるあたしを無理矢理引きはがしても、コイツ否定はしないんだからかわいいの。洗い場から半歩身を引いて、あたしが滑り込んで来るのを待ってる。
「その前になんかちょーだい。渇いてるとよくないかも」
「なんにする?」
「火星人」
「もっと渇きそうじゃねえか」
ぶつくさ言いながらも、流れるような手つきで棚からカクテルグラスを取り出す。
「だから、あんたって好き」
「だろ?」
愛しのマティーニが出てくるまでの間、あたしは上機嫌で彼の金髪を撫で回していた。
「今日、男の子におごってもらっちゃった」
「悪いこと教えたんじゃねぇだろうな」
「悪いことって?」
「俺にしてるようなことだよ」
「ヤキモチ焼いてる」
返事はなくて、ただオリーブの串刺しが乱暴にグラスへ放り込まれた。
「そういうとこも、かわいい」
なんてやってる間に外はうっすら白んできて、ああちくしょう、朝の奴が来るんだなって思った。朝はきらい。太陽がきらい。そういう人間がいたっていいでしょ。いやなもんは嫌。
青く光る空に星が沈んで行く。その下であたしは、溺れる人みたいにゆらゆらしながらアパートに帰った。
「ただいまぁ」
たどたどしく鍵を開けて部屋に入る。安物のシャンデリアは煌々として、床にはたかいびきの男が大の字でノビていた。
もじゃもじゃの油臭い髪、浅黒い肌、掘りの深い東南アジアのマフィアみたいな顔。何一つあたしに似ちゃいない。酒好きってこと以外。
「くっせ……」
加齢臭とアルコールの強烈な協奏曲に思わずぼやく。つきっぱなしのテレビからは、クラシック音楽を流す天気予報がやっていた。
かばんを下ろすと、あたしは床に散らばった缶をかき集め、キッチンのシンクへ向かう。そこはもう、他の缶でいっぱいになっていた。
イライラする。
あたしは缶を放り投げた。甲高い音を立ててぶつかり合う固い音。止まないいびき。イライラする。イライラする。頭の中ではその単語が、崩れ落ちる塔みたいに響いていた。
いつものことなの。でも最近、これがちょっとばっかり続いたからかな。頭の中の大きな音の向こうに、低い耳鳴りみたいな音が混じり始めた気がする。幻聴の中の幻聴なんてバカみたいだけどね。聞こえる気がすんの。
もう殺しちまいなよってね。今なら楽にヤレちゃうよってね。
だけどこれでもあたし、ヒトのコだからさ、殺しはよくないわけよ、例え不公平だってさ、殺しちゃダメだよ。フレディ・マーキュリーだって言ってるでしょ、ママを泣かせるつもりはないわけ。
あいつののとぶえ握り潰す変わりに、ピンチからピンクのバスタオルを引っつかむ。あたしのお気に入り、なのに、オエっ、オッサン臭染み付いてやがる。このクソ野郎、あたしのバスタオル使いやがった。
足元に転がってるでくのぼうを見下ろす。あたしの眼がナイフだったら、あんた、心臓一突きどころじゃ済まないよ、内臓掻き混ぜてスパゲッティみたいに腸絡めとってあんたの喉かっさばいて詰め込んでやる。
あたしはもうプンプンしながら風呂に向かった。年頃の娘がワンルームのアパートに父親と二人暮らしなんて、キチガイじみてる。このあたしが! 娘とはいえ、こんなにホニィなあたしといたら、このクソパパンが変な気起こすかもしんないじゃない? ああ汚らわしい。
シャワーを浴びて髪を乾かす。時計に目をやると、もう眠る時間はなさそうだった。仕事に行かなくちゃ。テレビを見ると、きれーなアナウンサーのニコニコ笑顔が大写しになっていた。何がおかしいのさ。何が。
あたしは化粧しながら、まだまだ目覚めそうにない父親を睨みつけていた。あんたいいね。まじで人生の勝ち組だよ。あたしにゃあんたが教祖かなんかに見えるよ。ミック・ジャガーやレニー・クラヴィッツなんかより、よっぽど自由にロックしてるよ。
着替えるとすぐ家を出た。スーツ姿のサラリーマンたちが真面目くさった顔で駅へ向かって列を成している。あたしも何食わぬ顔でそこへ混ざる。だけどさ、みんな、なんも言わないけどたぶん気づいてるんだよね。ヒトの中にサルが混ざってて気づかない奴なんかいないでしょ。でもみんな他人なんかにゃ関わらないから、だから黙って下向いて歩いてる。だからあたしも白々しく労働者の波に混ざってるわけ。
でもね、こうして電車に揺れてると、本物の労働者さんたちにも人種があることがわかんのよ。生活のために働いてるヒト、見栄のために働いてるヒト、仕事がしたくてたまんないヒト、まあ、他にも色々と。
朝は嫌だ。ヒトがいろんな種類に分けられちゃうから。夜になればやることなんか一つで、みーんな一緒なのに。朝になった途端、あたしは保護区のトリみたいに、みんなと違う色のタグ付けられてる気がする。みんなに知られてる気がするの。みんながあたしを見るんだもん。お医者さんに聞いたら、それはあたしが美人だからだって。でもママは言ってたよ、ただの被害妄想なんだって。そうそう、「このブス産むんじゃなかった」はママの口癖だったね。ほんと、産まなきゃよかったのに。
小綺麗な女子高生の群れが乗り込んで来る。身につけている小物、これみよがしなブランド品。そんなん小遣で買えるわけ? あたしが男だったら、犯してサイフぶんどってやるのに。そんでその金もっと有意義に、飾りなんかじゃなくお楽しみのためにぱーっと使っちゃうね。あ、ちゃんと気持ち良くしてあげるから大丈夫、なんて。そういうの得意よ。なんたってそうやって生活してきたんだから。
お嬢さんたち、よっくあたしを見なよ。あたしの目印を覚えときな。こういうニセモノ労働者に近寄っちゃ危ないよ。
あたしだって昔は人並みに労働者だったさ。でも、親父サマのお言葉で、今やすっかりニセモノになっちゃったんだ。
あたしの親父は飲んだくれの無職が天職だった。金は持たずに使うだけ。使った分は親類友人なら無差別に搾り取ってきた。そのためならどんな嘘でも平気のへいざよ。あたしはそんな嘘には騙されないけど、あいつ卑怯にもおばあちゃんを人質に取ってた。パパンとママが離婚して以来、たった一人の肉親と思ってきたおばあちゃんをさ。
病気してたおばあちゃんが電話で死にそうな声して食べ物が買えないって言ったとき、あたしクソみたいに金出したよ。あの放蕩親父がブスに貢いでるのは知ってたのに、遠く離れた実家ですき放題する奴を止められなかった。
あたしが金送って一ヶ月後、おばあちゃん死んだよ。自分の息子に殺されるんだって言ってね。葬儀中も親父は飲んだくれ。保険金使い放題、その上おばあちゃんの病院代と称して娘と元妻に二重取り立てとは恐れ入った。
まあ、そんなびっくりも、実家を売った金を使い果たした奴が、着の身着のままアパートに現れたときの驚きと比べりゃ大したことないけど。
あたしはもう驚きを通り越してカッカしててさ、怒鳴ったってしょうもないのに声張り上げて、一端のキョウシみたいなこと言ったっけ。
「なんで稼ぐ以上の金を使うの? 家族のために働けないの? せめて自分の生活のために?」
そしたら親父さん、感動的なこと言うじゃない。
「そんなことしよったら、人生いっちょん楽しんなか!」
そらそうだ。てめぇに貢いだ二百万、貯める間の生活はなんも楽しくなかったよ。酒はなし、食べるもんは野菜と鶏肉。使い古して、靴も服も下着もボロボロの流行遅れ。その見返りがこれさ、大好きなおばあちゃんの死とクソ親父との同棲生活。
あたしが間違ってたんだよ。楽しまなくちゃ。子供みたく楽しんだもんが勝ちなのさ。天の国はそいつらのもんだし、放蕩親父にも畑は与えられる。ただであったかい寝床につけて、人の金で酒飲んで女買えるってわけ。
だけどさ、不思議なもんで、楽しいことだけしようってするとさ、気持ちがいっきにしぼんじゃって、モヤモヤしちゃうんだよね。
例えば受験勉強で頭爆発しそうになった時、ヤケクソで一人カラオケで一日過ごしたら、始めは楽しいかもしんないけど、きっともやっとすると思う。そんな感じ。変だよね、受験生と違って明確な目的なんかないのにさ。
これってすっごい悔しいんだ。楽になりたいのに、会社なんか辞めて楽しく酒漬けの春を売って生きていきたいのに、モヤモヤが邪魔してできないんだよ。
このモヤモヤ、なんだろう? きっと義務教育のせいだよ。シャカイを作ったオトナたちが自分たちに都合のいいように、あたしの頭にナンカしたんだ。あたしを労働者にしとくための足枷を付けやがったんだ。それを、あの親父は易々ぶっ壊したんだからたいしたもんだよ。
あたしだって、仕事なんて大っ嫌い。だって稼いでも稼いでも、あの親父に吸い取られるだけなんだもん。働かない方がずっとマシなんだ。だけど毎日会社に行くのは、あたしの場合は金のためじゃなくって、もっと違うもののためなんだ。よくわからないけどそうなの。二日酔いに寝不足だって、ミスして怒られたって、行かなきゃいけないの。なんだか麻薬みたい、教育ってのは。だからあたしは労働者じゃなくて、中毒患者なんだと思う。だから、ニセ労働者。
そんな自分がバカらしくてみじめで、足枷壊そうって必死になってたんだけどさ、最近、なんか気づいたんだよね。もう一個、あたしには足枷が着いてるって。
仕事終わってさ、酒飲む元気もないほどヨレヨレの時だったかな。アパートに帰ったらやっぱし親父が酒喰らって仰向けでいびきかいてたんだ。それ見てたら、なんかピシピシ音がしたんだ。そしたら、あら、こっちの足枷にはヒビが入ってて、ネジもゆるんじゃってるわ。この足枷が壊れたら、たぶん包丁にも手が届いちゃうのよね。
女子高生がヒトゴトみたいにはしゃいでる。
「あの事件の犯人、あたしらと同い年らしーよー」
「あ、犯人娘だったんだつけ?」
「怖ーい」
あたしをよっく覚えときなよ、お嬢さん。たぶんもうじき、枷は壊れるから。
「槌を持ったオレンジ」おしまい。