(二)
モヨ子は、この米沢の地では有数の名家の令嬢として育ってきた。
浅井家に遅くに生まれたただ一人の子供だった。母親の命と引き換えであったこともあるのだろう。父親からは盲目的に可愛がられ、幼いころから手に入らないものなど何一つなかった。だからだろう、モヨ子は物欲とか、固執だとかとは無縁の生活をしていた。
環境だけではない。モヨ子は容姿にも恵まれていた。米沢の旧家がこぞって娘を入れたがる聖母園学院では彼女を知らない者はいないほどだった。
血気の浮かぶ、もちっとした丸い頬。薄く控えめな唇。笑うと三日月形に細まる、黒目がちな瞳。その容姿にたがわないおっとりとした性格に、女学生たちはみなうっとりと、「ご令嬢とはこのようにあらなくては」と思うのだ。
そんなモヨ子が初等科最後の夏を迎えたある日。モヨ子は真っ白なレースのワンピースを着て、級友たちと外で遊んでいた。空は青く晴れ渡り、早くも積乱雲が渦高く積り、空気はじっとりと重くモヨ子の若い二の腕やふくらはぎにまとわりついていた。
モヨ子と三人の友人は、車の通りの少ない広い道でかくれんぼをしていた。辺りはぽつりぽつりと藁ぶき屋根が見える他は、少女たちの背丈より高い青草が生えた空き地やうっそうとした杉の茂る丘があるだけだった。
鬼は草むらに屈み数を数え、少女たちは思い思いの方向へ散った。モヨ子は、意表を突いて丘とは反対側へ走った。道を渡った先は雑草の茂る土手になっていて、河原は七尺以上低くなっている。それにここにはよく台風で飛ばされたトタン板や壊れた家具などが打ち捨てられていた。身を隠すものがあるかもしれない。
買ってもらったばかりの白いサンダルが汚れるのも気に留めず、モヨ子は雑草の間を滑るようにして降りた。水量の減った川の表面が、まぶしい夏の陽を照り返して彼女の目を焼いた。ぱっと、視界に白い斑点がいくつも浮き上がり、その間を、黒い影が横切った。白昼夢のような一こまだった。
小石や割れたガラス瓶だらけの河原に降り立つと、モヨ子は影の方を見た。小さな黒猫が、マイペースに川沿いを歩いていた。
「待って、かわいこちゃん!」
かくれんぼのことなど、頭から吹き飛んでしまった。あの黒猫を抱きあげてみんなに見せたら、きっと友人たちも同じようになるに違いなかった。モヨ子は猫を追った。すると猫は走り出した。
モヨ子が猫を見失うのには時間はかからなかった。しかし彼女はあきらめきれずに、河原に捨てられた瓦礫の間を一つ一つのぞいたり、さらに川沿いに進んでみたりした。随分長いことそうしていた。そのうちに辺りは薄暗くなり、川の対面から大きく枝を伸ばしたニレの影で、空気は陰気な緑色を帯びていた。
そんな中で幼いモヨ子が見つけたのは、黒猫ではなく湿って重たくなった雑誌だった。しかしモヨ子が時折書店で手に取るような、淡い色の挿絵や可愛い動物の写真は載っていない。表紙にはよく読めない漢字や意味を知らない横文字、知らない大人の写真ばかりでつまらなそうだった。モヨ子は、雑誌を元の場所へ戻そうとした。ちょうどその時、夕立が始まった。
「やだ、濡れちゃう!」
モヨ子はとっさに、頭の上にその雑誌を掲げた。ヨシエの家に戻ろうかと思ったが、それよりも、もう少し先に橋がある。夏の雨はすぐに上がるのだと学校で習った。モヨ子は橋の下で雨宿りすることを選んだ。
少女にとっての半刻は、気が遠くなるほど長い時間だ。しとどに水面を打つ雨を眺めながら、モヨ子はすっかり退屈してしまった。そして父が、たくさんの本を読んで賢くなるようにと言っていたことを思い出し、まったく興味の持てない雑誌を開くことにした。
河原に落ちている雑誌に何が書いてあるかなど、とても説明するつもりにはなれない。そこにはとても原始的な欲求を満たすための斬新なアイディアや、異国で起きているおぞましい事件、そして日本に伝わる忌まわしい風習の暴露話などが詰まっていた。意味など半分以上わからないはずなのに、気付けばモヨ子は夢中で文字を追っていた。そしてその真新し文字たちは、先生や父親、家庭教師には決して聞いては行けないものなのだと気づいていた。
集中するモヨ子の意識の片隅に、「モヨ子ちゃん、浅井モヨ子ちゃあん」という呼び声と、水を跳ねる足音が聞こえた気がした。しかしそれを無視して、モヨ子は橋の下でまあるく屈みこみ、雑誌に没頭した。
そのうちに、ヨシエの母が河原を歩いてくるのが見えた。はっとして、何か考えるより先に、モヨ子は雑誌を川に捨てていた。それから、大声で叫ぶ。
「おばさまー!」
「モヨ子ちゃん!」
声に気付いたヨシエの母が、傘を手にして駆け寄ってきた。薄暗いせいかその顔は青黒く見えた。その後ろに、ヨシエの姿もあった。
「モヨ子ちゃん、ああよかったわモヨ子ちゃん、おばさん心配したのよ、本当に心配したの」
「ごめんなさいおばさま。遠くに来すぎちゃったみたい。私、ダメね」
橋の下にいたモヨ子より、傘をさして駆け回ってきた親子の方がずっと濡れていた。しかしヨシエの母は、新品の白いタオルでせっせとモヨ子の髪やワンピースのすそをぬぐった。
「いいのよ、もういいの。お迎えの車が待っているから、うちへ帰りましょう」
言いながら、ヨシエの母はモヨ子の背中を拭こうとした。自然と、モヨ子は自分から背中を向けた。するとヨシエの悲鳴が上がる。
「も、モヨ子ちゃん、それ……!」
「ヨシエ!」
ヨシエの母はもっと鋭い声でたしなめた。モヨ子はびっくりして振り返った。
「何? どうしたの?」
「いいのよモヨ子ちゃん。大丈夫よ」
見開かれたヨシエの目は、モヨ子の臀部に向けられていた。視線を感じた部分に手を触れてみると湿っていて、指先が僅かに赤黒くかすれた。
つづく