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(五)
 美佳が再び浅井邸を訪れたのは、それから一年近くが経ってからのことだった。月日は流れていた。しかし、玄関を開け放ちポーチを駆け下りてくるモヨ子は何も変わらなかった。今日は、色鮮やかな花柄のワンピースを着ていて、それが庭の緑に映えていた。

「美佳、待ってたわ!」
「あたしのことなんか忘れたんだと思ってた」

 笑顔のモヨ子に対して、美佳はどこか冷たかった。猫のような目じりの上がった瞳が、庭の木々の間を泳いでいる。

 初めの習慣通り、モヨ子と美佳は学校ではほとんど口を利かなかった。ときどきみんなの目を盗んで「週末、行ってもいい?」「今はまだダメ」という短いやり取りを交わすだけだった。最近ではそのやり取りもなくなっていたが、先週になってモヨ子の方から美佳を誘ったのだった。

「急だったからさ。あんたが喜びそうなもん、準備できなかったよ」
「そんなの気にしないでよ」

 美佳は居心地が悪そうだった。しかしモヨ子は満面の笑みで、彼女の目の前に、鍵を掲げて見せた。

 訳が分からないように、美佳はただそれに焦点を合わせただけだった。

「大変だったんだから。でも、ようやく美佳に見せてあげられる」
「なに?」
「地下室の、箱」

 それでようやく、美佳は最後に交わした約束を思い出したようだった。忘れられていたことはさびしかったが、しかしそれでも会いに来てくれたことが嬉しかった。モヨ子は上機嫌で、美佳の手を取った。

「来て!」

 二人は半ば走るようにして階段を上がり、廊下を進んだ。その間、美佳はどうやって鍵を手に入れたのか尋ねてきたが、モヨ子は「秘密」としか答えなかった。

 そして浅井家当主の書斎に来ると、モヨ子は得意げに鍵を差し入れた。カチン、という音を聞いてから、美佳の様子をうかがう。美佳に表情はなかった。ただ、口元を引き締めて扉を見つめていた。美佳には、これから何が起こるかわからないのだ。だから美佳は緊張しているに違いない。そう思うと、モヨ子は胸が高鳴った。

 これまでは、美佳がなんでもモヨ子に教えてくれていた。今、ようやく立場が逆転したのだ。モヨ子が美佳を導くのだ。

 モヨ子はそっと扉を開き、狭い隙間に押し込むようにして先に美佳を入れた。それから廊下に召使の姿がないのを確認して、鍵を抜いてから滑りこむようにして書斎に入った。

「そこよ」

 中から鍵をかけると、モヨ子は立ち尽くしている美佳の隣にに行き指差した。すでに棚と絨毯は移動させてあり、床はむき出しになっていた。あげ戸だけは閉めたままにしてある。モヨ子はそこへ屈みこみ、扉を引き開けた。

「何か見つかった?」

 美佳が身を乗り出した。振り返ると、その頬はわずかに上気していた。ようやくいつもの美佳が帰ってきた。モヨ子はほほ笑んで、それから長い指をそっと、自分の唇に押し当てた。

「できるだけ静かに、ね?」

 美佳はまっすぐにモヨ子の目を見てうなずいた。その神妙さが可笑しかった。

 モヨ子は先に階段を下りると、地下室の天井につりさげられた裸電球を点けた。美佳がおずおずと降りてくる。

 地下室はあまり広くはない。六畳ほどだろうか。背の高い本棚に囲まれていて、妙に息苦しい空間だった。他に家具と言ったら例の箱しかなく、床には積み上げられた書類が隅に寄せられている。

 黙って辺りを見回す美佳に、モヨ子は手招きした。モヨ子はもうすでに、箱の蓋に手をかけていた。

「大きい」

 美佳が呟くので、モヨ子はもう一度、唇に指をあてた。美佳の眉がピク、と動いた。

「なんで? ここの音は外には」
「お父様が起きちゃうわ」

 遮るようにそういうと、モヨ子は箱の蓋を開いた。美佳は大股で近づいてきて、中を覗き、それから甲高い呼吸の音を響かせてのけぞった。モヨ子ははっとして、いたわるように箱の中を覗いた。良かった。父は、まだ箱の中で眠っていた。

「美佳、大きい声はやめて」

 低く、抑え込むような声でモヨ子は言った。美佳は、両手で口元を覆っていた。目を大きく見開いて、じっとモヨ子を見つめている。

「お薬で眠ってらっしゃるのよ。あちこちがとても痛むだろうから、定期的にお薬をあげるようにお医者さまから言われてるの」
「モヨ子……」

 美佳はいくぶん小さな声で言った。その言葉は震えていた。

「なぁに?」
「あんたやっちまったね……これはまずいよ。殺しはさ。絶対ばれるよ」
「やだ。美佳ったら。お父様は生きてらっしゃるのよ。確かに、危なかったらしいけど。お医者さまがきちんとしてくださったの」

 そう言って、モヨ子は愛おしげに父を見下ろした。長さ四尺、幅三尺、深さ三尺の箱に横たわる彼からは、キレイに手足が切り取られていた。それでも肌着の胸元は規則正しく上下し、力なく横を向いた顔からは、かすかな呼吸音が聞こえた。

「なんで? 鍵? 鍵を奪うため? 地下室がほしかったの? なんでこんなこと」
「なんでって、ここは地下室の箱ですもん」

 モヨ子は首をかしげた。美佳は、どう見ても嬉しそうでない。

「こういうのがお似合いだと思って」
「ついて行けない……」

 言葉の途中で、美佳は嘔吐してしまった。モヨ子は駆け寄って背中をさすろうとしたが、その手は鋭くはねつけられた。顔をあげた美佳の目は厳しかった。

「あんた、イカレてるよ」

 それから、美佳は脱兎のごとく階段に向かった。あわてて、モヨ子はその足元に飛びつく。

「美佳! どうしちゃったの? どこへ行くの?」
「タクヤんとこだよ。大丈夫、あんたのことは絶対誰にも言わない、言わないから!」
「タクヤ? タクヤって誰? 恋人は私だけじゃなかったの?」
「あんたなんかが恋人なわけないだろ!」

 もみ合ううちに、美佳はモヨ子の肩をしたたかに蹴った。モヨ子は尻もちを突いて倒れ、息を荒げ指を突きつけている美佳を見上げた。

「あんたみたいなド変態と遊ぶのも面白そうだなと思って、テキトーに相手してただけじゃない。あんたも楽しんだし、もう十分でしょ!」

 そう言い捨てて、美佳は階段を駆け上がっていった。モヨ子はまだ茫然として、開けっぱなしの床板を見上げていた。
 美佳は知らないのだ。この部屋の鍵は、モヨ子だけが持っている。上から、ドンドンと扉をたたく音が響いていた。やはり召使たちに暇を出しておいたのは正解だったなとモヨ子は思った。



「シスター、お話があるんです」

 かつて美佳と固く抱き合った御堂で、モヨ子は膝まづいていた。その横に年老いたシスターが腰掛け、静かに耳を傾けてくれていた。

「吉野さんのことです。彼女、学校ではよく思われてませんでした。ご存じでしたか?」

 修道女はただ頷いた。モヨ子は続ける。

「相談相手は私しかいなかったようです。吉野さん、前から付き合っている男の子がいたんです。タクヤくんっていう……もちろん校則で禁止されているのは知っています。でも、二人は本当に愛し合っていたんです。だけど、だけど」

 わき上がる嗚咽が、言葉を邪魔した。

「浅井さん、大丈夫よ。ゆっくり話してね」
「はい。だけど、吉野さんは……男の人たちに……とても恐ろしい目にあわされて、それで、タクヤくんにはもう二度と会えないって言ってました。いいえ、他の誰にも」
「そんなことがあったなんて」

 年老いた修道女は喉を詰まらせ、両手を固く握りしめた。

「それで、吉野さんはどこにいるの? 浅井さん知ってる?」
「いいえ。私にもそのことは教えてくれませんでした。ただ、父に相談したら、吉野さんが当座の生活に困らないように手配してくれたって。場所は教えてくれませんでしたけど」
「浅井さんのお慈悲にはかないませんわね」

 シスターは十字をきって何事か呟くと、しばらくアーチ型の天井を見上げていた。

「とりあえず、吉野さんの方から連絡があるまで待ちましょう。それまでは祈る他ありません」

 そう言うので、モヨ子は神に祈りをささげた。感謝の祈りだった。



「ねえ美佳、大好きよ。私、あなたにお母様になってもらおうと思っているの。どうかしら。私、一人っ子でしょ? 弟か妹がいたらきっと楽しいわ。やだ、そんな顔しないでよ。お父様の方はその気みたいじゃない。大丈夫よ美佳、私ちゃあんとお手伝いするから。あなたが私にしてくれたみたいにねぇ、美佳……」

 モヨ子は箱の中に身を乗り出して、にこにこ笑っていた。
 

 終わりく